ユートピアンとリアリスト

 もし目的が思考に先行して、思考の道筋をきめることになるなら、人間の心が新しい分野で働きはじめる場合に願望とか目標がつよく前面に出て、そこでの事実や手続きを分析しようとするゆき方を押さえ込み、この方向に伸びる芽さえ摘みとる形で事がはこばれることになろう。ホッブハウスは「原始の人びと」の特性として「ある考えが客観的に正しいということと、考えたようにあって欲しいと願うことが区別されない」ことをあげている。このことは政治学の段階でも同じで、これを「ユートピア的段階」とよぶことができよう。この段階での研究者はそこでの「事実」に注目したり、その原因、結果の分析に留意することはほとんどなく、かれらがめざしている目標を達成するために描いた設計―その簡明で完璧であることのゆえにかれらがみな引きこまれてゆく企画―の仕上げにもっぱら心をうちこむ。やがて、この企画が挫折して、願望や目標だけでは、めざす目的を達成することができないことをさとる。そのときにはじめて、かれらはやむなく分析に助けを求めることになる。こうして、その研究は、幼稚でユートピア的な時期から抜け出て一個の学として名のりをあげることのできる在り方になってゆく。

 願望に対して思考があたえる衝撃は、学問の発達過程においては、研究当初に夢みられた設計が挫折することにつづいて起きるのであり、この過程でのすぐれてユートピア的な時期の終わりを明示する現象で、一般にリアリズムと呼ばれている。それは、初期の段階にいだかれた願望にたいする反動であることから、どうしても批判的でシニカルな様相をおびることになる。思考の分野では、リアリズムは事実の認識とその原因結果の分析とに力点をおく。そこでは、目的の役割は重くみられないで、思考のはたらきは事態の生起―思考が影響をあたえることも変革することも出来ない事実―を研究することであることが明に暗に強調される。行動の分野においては、リアリズムは、現に活動している諸勢力の抵抗しがたい強さとか実際の諸動向の必然性を重視し、それらの勢力や動向を容認して自らも順応してゆくことが最も賢明な態度であると主張する。このような姿勢は、それが「客観的」思考であるとしてとられるとしても、結局は思考そのものの枯渇となり行動の空しさとなるのがおちであろう。しかし、それにしても、リアリズムが、ユートピアニズムの繁茂するさまを抑える矯正のはらきとして必要とされる段階があるのであり、同じように他の時点ではユートピアニズムが、リアリズムのもたらす不毛な結果を防ぐために呼び出されなければならないのである。

 ユートピアとリアリティとの対立―つねに均衡を保とうとしながら、なお揺れて、けっして完全には平衡を保つことのない天秤のすがた―は、多くの思考形式にあらわれる基本的な対立である。思考の二つのはこび方―何があるべきかを考えることに深入りして、何があったか・何があるかを無視してしまいがちなそれと、何があったか・何があるかということから何があるべきかを導きだしてゆくそれとが、あらゆる政治問題に対する姿勢を二つに分けることになる。アルベール・ソレルが言っているように、「それは、世界が自分たちの政策に順応するようになると考える人びとと、自分たちの政策を世界の現実に適応するように立てる人びととの間の終わることのない論争である。」

E.H.カー、『危機の二十年 1919-1939』、岩波書店、1996年


「人は見たいと欲する現実しか見ようとしない」 ユリウス・カエサル


「地獄へと至る道は、善意という名の石畳で舗装されている」 ヨーロッパのことわざ