経済的な左右のイデオロギーはどう政治に絡むのか?

 前回のエントリー(参照)で中国における改革派と保守派(新自由主義vs新左派)の論争がどうも激しくなってるっぽいという話をしたのが今回はそれをどういう政治的な文脈で理解したらよいのか考えてみたい。

 前回コメントでkaikaji先生からの御指摘。

私もこの辺についてはよくわからないのですが、例えば政争というとよく「胡錦涛派」と「江沢民派」の対立、と言う方がされますね。で江沢民路線は胡錦涛よりもっとゴリゴリの市場主義だ、というのが一般的な理解だと思うのですが、この会議の参加者の多くは別に反胡錦涛というわけではないですよね。むしろ胡政権を支えながらより市場志向的な改革を進めていこう、という立場のように思えます。そうするといわゆる「胡か反・胡か」という派閥対立は「右(新自由主義)か左」かというイデオロギー対立とそのまま重ならないわけで、それが外から見たとき非常にすっきりしない原因になっているのではないでしょうか。むしろ二元的に対立の軸を設定した方がいいかもしれません。例えば、この会議の出席者は政治的には「親・胡」でイデオロギー的には右(新自由主義)であり、いわゆる「上海閥江沢民派)」は「反・胡」で「右」、そしていわゆる左派は「反・胡」で「左」、とこのように整理してみると、少しはそれぞれの立ち位置がわかりやすくなるかなと愚考する次第ですが、いかがなものでしょうか。参照

 胡錦濤派と江沢民派という政治的な対立を前提とするのなら、胡錦濤路線より市場主義的傾向の強かった江沢民時代と親和性の高いと思われるいわゆる「新自由主義者」という人たちは、胡錦濤と特に対立しているわけではなく、であるならばイデオロギー的な立場の違いが果たして政治的な対立関係と関連しているのかというと疑問がある、ということかと思う。

 これを図に起こしたのが[親・胡か反胡かの対立軸]である。確かに上述の指摘の通り、特に「新自由主義」の立場の人が明確に胡錦濤と対立しているわけではない。しかしながら、「親・胡」で「新自由主義」というのは、日本でいうと亀井静香竹中平蔵が同席してニコニコしているような違和感がある。実際に、新社会主義農村建設だとか、富の再分配などの話題に関しては「新自由主義」の立場の人の話は「調和の取れた社会」とか、「科学的発展観」がとか言い出して途端に具体性を無くすような気もする。政治的な強力な背景も無しに現政権の掲げるイデオロギーを批判するというのも学者や政府関係者には荷が重いであろう。

 そこで取り敢えず、新自由主義派も一つのアクターとして、いくつかのアクターとともにその立場を図示してみた。それが[図1:イデオロギー分布概念図]、[図2:政治勢力分布概念図]、[図3:相関概念図]となる。

新自由主義市場経済原理の徹底した推進、政治体制の改革には積極的
長老グループ右派:胡耀邦に近い人たちだったグループ
軍部急進改革論:軍の国軍化、体制改革、弱者層の救済(by劉亜洲)
胡錦濤的発展観:「調和の取れた社会」「新社会主義農村建設」、政治体制改革に関しては党内民主程度
江沢民的発展観:「三つの代表」、上海(沿海先進地域の経済成長)、政治体制改革に関しては党内民主程度
訒小平的発展観:「先富論」「改革開放」、政治体制改革に関しては一党独裁体制絶対維持
新左派:社会主義体制の護持、政治体制改革に関しては一党独裁体制絶対維持

 という様なイメージでそれぞれのポジションを考えてみた。こう考えると、新自由主義派というのは必ずしも江沢民的発展観そのままではない。両者を分けるのは政治体制改革に積極的かどうかという点。また、所有権の問題などに関しても、新自由主義派と比較してそこまで経済的に右かという点に関しては疑問がある。その点に鑑みて政治勢力分布を概念的に捉えたのが図2、図3になる。

 それで、新自由主義者が「親・胡」か「反・胡」かとう問題だが、それは自身のイデオロギーに基づく路線をどの派閥が実行してくれるのかというのに尽きるような気がする。その意味で現政権を担い、一応は党、政、軍を掌握している胡錦濤に表立って敵対しないという選択をしているのに過ぎないのではないか。一方でそれぞれの派閥は自らの正当性の軸足をどこに置くかで、それぞれのイデオローグと同盟関係を結ぶかというのが決定されるのかも知れない。胡錦濤の動きに関して言えば、「親民姿勢」を掲げ、弱者層への資源分配を考慮してみせるのはマトリックスの第三象限、第四象限へのベクトルを感じさせるし、胡耀邦の再評価に色気を見せるのは第一象限へのベクトルを感じさせる。マトリックスの中心あたりはどの方面からもある程度の支持は期待できるが、何とも言えない玉虫色とも言え、中途半端感が漂う。あるいは「十一五規画」の何とも言えない中途半端感はそういうことなのかも知れない。そうなると党内闘争におけるイデオロギーの重要性などを強調していた私などはどうしたらいいのでしょうかwまあ現状では考える材料が少な過ぎるというのもあるが、個人的にはこの左右の論争が政局になる予感が捨てきれないんだよなあ、中国現代史をおもんばかるに。

 しかし、こうして見ると第四象限に軸足を置く勢力とかイデオロギーって無いな。敢えて言えば軍部のアレな人たちが一番近いが・・・平成の御世に隣の国で昭和維新断行の叫び声は聞きたくないもんである。

これ、あとで加筆するかも知れません。




水面下で進む保革激突の構図

 以前に『財経』にのった皇甫平*1の「改革を動揺させるな」(参考)の時にも伺えたが、中国の内政を巡って新たな右派と左派の対立が生じている。いわゆる右派とは「新自由主義」とも呼ばれる、市場原理を通じた経済運営を重視し、さらに中国の市場化を推し進め、政治体制もそうした市場原理を通じた合理的な資源配分に適合したものに変えていこうというグループ、もう一方の左派は、市場原理を通じた経済運営が、現在の腐敗問題、格差問題といった社会矛盾を生み、中国の社会主義体制を根幹から揺るがしていると考え、行き過ぎた市場化に歯止めをかけようとするグループ、と取り敢えずしておく。

 そして今回紹介するのがまたまた、右派と左派の間に大きな論争があることを伺わせる文章。厳密にではないが適当に資料批判してみると、この文章は「中國宏觀經濟與改革走勢座談會紀要」*2と題するもので、政府機関、政府の政策に関与している学者によって行われた座談会の内容を記録した文章ということになっている。ただし、これは外部のマスコミの報道によって明らかになったもので(もっと正確に言えばネットに流出したものをマスコミが報じた)、正式には発表されていない。ウォールストリートジャーナル中文版(华尔街日报)が4月6日に報じた「“走光”会议纪要现中国改革辩论」という記事によれば*3、この文章は3月4日に国務院に所属する「中国経済体制研究会(China Society of Economic Reform)」が四十名近くの学者、専門化、政府官吏を招集して行われた研究会の議論を記録したものである。WSJによれば会議の参加者に裏を取ったところ、誤字などが散見されるが内容は間違いないとのこと。実際にこの文章を見たところ、その誤字というのは同音異義語の変換ミスの様なものが多く、これが正式に内部で発行された文章というよりは参加者の何者かが録音したものを外部に流出させたものと思わせる節がある*4。ともかく、この文章が流出した経緯には多分に政治的な意図があることだけは明白かと考えられる。ネット上に登場したのも左派傾向の強いサイトからという話もある。と、この文章に関する話はこれくらい。

 さて、その内容だが、多くの論者がいわゆる「新自由主義」の立場から改革擁護の論陣を張るとともに、市場原理が適切に機能するためには政治改革もまた不可避とする意見が出ていることに注目がされる。前半にされている問題提起を見るに改革を巡る論争の主要な点は以下の通りになるかと思われる。

1、イデオロギーの問題;新自由主義vsマルクス主義、従来のイデオロギーに如何に整合させるか。
2、改革の途上で具体的に解決されるべき問題;国有企業改革、医療改革、教育改革、土地収用問題etc
3、弱者層の問題;格差の問題、富の再配分問題、農民問題、レイオフ労働者問題etc
4、政治体制改革;司法の独立、法治国家三権分立、多党制にまで言及されている

 特に最近の農村での「反乱現象」には多くの者が衝撃を受けていることを伺わせるし、いわゆる「新自由主義」の考え方に親和性の高いものは政治体制改革が不可避だとの強い危機感を感じることができる。例えば「物権法」、「独占禁止法」、「土地所有制」の問題を考えるとどうしても社会主義体制というものに行き当たるし、司法の独立がなければ公正で透明な市場原理の機能が発揮できない、また多発する「農民の反乱」を解決しようとすれば多様な利害集団が合法的に意見表明するチャンネルとそれを政府の政策へとフィードバックするメカニズムが必要であると言った具合に、更に改革を加速させるためには政治改革は不可避と言った具合だ。

 ちなみに面白い数字が出ていたのでメモすると、2005年の集団抗争事件の件数は8万件以上、その60%が土地問題に絡んだもの。1979年から1982年までに文革時の名誉回復を求めるものを主とする上訪総数は2万件、2005年は3000万件とのこと。この現状は、基層においては既に中国共産党の統治能力、利害調整能力が相当に劣化していることを表わしているだろう。会議参加者の危機感もむべなるかな。

 一方の左派であるが、彼らはネット上などで改革の弊害を訴え、右派の共産党による一党独裁体制にも踏み込むような議論を反国家、反党的言動として攻撃している。この人たちの主張というのもあまり見えてこないので一度きっちり見てみる必要があると感じている*5

 さて、私はイデオロギー、路線、政権内の権力関係が密接に関係していると考えると散々強調してきたわけだが、今回の件をどういった政治的な文脈の上で考えるべきなのか、という点に関してははっきり言ってあまりよくわからない。ある局面では右派的な行動と言動の傾向を持つ人が、ある局面では左派的な動きを見せるなどどうも背後では明確に右派、左派で割り切れない状況があるんじゃないかという気もする。その辺はまだ考えがまとまってないんだが、次回にでも概観してみようかと思う。

*1:中の人の周瑞金のインタビューなどはこちら、「专访皇甫平:警綃以“反思改革”之名否定改革」『新京報』、3月15日、http://www.cycnet.com/cms/2006/2006youth/rdnews/t20060315_304854.htm

*2:その全文はこちらで見れる。「杏林山莊中國宏觀經濟與改革走勢座談會紀要」『多維新聞網』、4月9日、http://www4.chinesenewsnet.com/MainNews/SinoNews/Mainland/2006_4_9_9_33_38_896.html

*3:WSJは登録しないと読めないんだがこちらに全文転載されている。「華爾街日報 “走光”會議紀要現改革辯論」『星島環球網』、4月7日、http://www.singtaonet.com:82/op_ed/ed_china/t20060407_185047.html

*4:更に言うと漢字の使い方が広東語っぽい使い方で変換してたりするんだが、私は広東語がわからんのでその点は保留。或いは香港のマスコミに直接流れた分もあるのか?

*5:例えばこんな報道がある。「北京新左派重獲發言權﹖」『多維新聞網』、4月29日、http://www5.chinesenewsnet.com/MainNews/SinoNews/Mainland/2006_4_28_14_49_41_126.html

ヲチの流儀(改訂版「ネタとかネタ元とか」)

 情報収集の目的は、現在の状況、変化の発生を捉える「観測」を行い、その得られた情報の確度(確かさ)を推測ないしは判断し、確度の高い情報の中から何が起こっているのか、どのように変化しているかを分析し、他の情報の分析と比較、融合し、その結果として得られた「情報(インテリジェンス)」を基に、行動の決定を行う点にある。
 (中略)
 そのような時代(引用者注:冷戦時代)でも、東側の内情は公刊情報からある程度把握し、推測ができた。米中央情報局(CIA)は1947年に設立され、冷戦時代はほとんど東側、それもソ連を中心とするワルシャワ条約機構加盟諸国の動向を探るのに多大な努力を費やしてきたが、その情報の80〜95 パーセントは公刊情報から得られるといわれた。東側で出版されている新聞、雑誌、研究論文などを読み、あるいは東側のラジオやテレビ放送を聞いて、そこに盛り込まれている情報から「変化」を探り出すのである。こうした情報には、当局による政策決定などの「伝達」も含まれているが、その伝達によって実施された政策が、果たして所期の成果を挙げているのかは、こうした公刊情報の継続的な観測で微妙な変化を捉える方法により、確認あるいは推測できる場合が少なくない。

(江畑謙介『情報と国家』、講談社現代新書、2004年、18〜20 P)
 

 公刊情報は①一次、②二次、③技術的なものの三つに分類できる。最後の技術的な公刊情報とは、例えば商業目的で販売される衛星写真などを意味する。前二つは情報分類の基本であり、一次情報とは特定個人からの直接に提供される情報で、新聞記者がその事件の当事者にインタビューして得られるような情報を指す。この一次情報源としては、ジャーナリスト、コンサルタント、調査・研究員、あるいは公務員などがある。
 二次情報とは印刷物にせよ電子的なものにせよ、公刊されている文献を指し、新聞、雑誌、学術論文、政府公刊物、そしてラジオやテレビの字訳(トランスクリプト)などである。インターネットからはこれらの第二次情報が大量に、迅速に入手できるようになったが、その基本的特性として、どうしても一次情報より時間的遅れが生じる。
 二次情報には特定のサークルに属する相手だけに配布されるものもある。その種の情報の入手は他の公刊情報より難しいし、大体そのような情報が存在すること自体をしるのも容易ではない場合がある。ここから、この種の非商業的出版物(グレイ・リテラチュア)による情報は「灰色情報」とも呼ばれる。議事録やニューズレター、あるいはある種の科学技術論文などである。

(江畑謙介、上掲書、29〜30P)

 上述の引用文中にあるいわゆる一次情報、二次情報というのは、それ自体は「インフォメーション」であって、「インテリジェンス」ではない。こうした一次情報、二次情報、といったインフォメーションを分析、評価、定点的な観測の結果えられる時系列的な変化、他の情報と比較、融合、などの過程を通して加工したものがインテリジェンスとなる。そこには当然に観察者の主観も入ることになる。それゆに再現性が担保されていないインテリジェンスの信憑性には留意する必要がある。そのロジックがいかに構築されているのかトレースできない論などはナンセンスであろう。観察者は出来うる限り自身の情報源を公開し、引用元を明示する必要があるかと思う。

 中国ヲチを行う上で、一次情報に触れる機会は極めて稀なものである。政府部内の内部参考や新華社の発行する特定幹部以上が閲覧可能な内部参考消息などは、権力闘争の背景を描いた著作物(これも時の政治状況に合わせて意図的に出版されるのだが)の脚注など見るに国内外の政治状況や政策論争などにも言及されているようであるが、それらを一般人が目にする機会はほとんどない。そこで中国ヲチ者が収集、分類、整理すべき対象は二次情報が主体となる。特に我々の様なネット上の中国ヲタはそうであろう。実は公刊情報から得られるものは少なくない、とういのは上述の引用文の通りである。

 さらに中国的な政治文化の背景も、中国ヲチにおける二次情報から読み取れる情報の幅を増やしているとも言える。中国におけるマスコミ媒体は「党の口舌」であり、本来的には党の宣伝のための手段である*1特に党、党組織、地方政府の機関紙などではその特徴が色濃く現われる。それゆえに、それら機関紙の報じる情報、論調から(或いは報じない情報から)、その背景になる組織或いは実力者の政治的なスタンスを読み解くというアプローチが可能になる。党の中央宣伝部が許容する範囲であれ許容しない範囲であれ、「きわどい」情報の存在は特に何かしらの意図や背景を以て報じられている可能性が高い。そこにイデオロギー上の言語感覚や婉曲的に行われる批判、論争のリテラシーを加えると色々と見えてくるものも広がってくるのかと思う。ただし、それらの機関紙も一枚岩的に母体組織の利害を代表していると考えるのも早計の様に思う。ゆえに情報の取捨選択が重要になるかと思うが、こればかりは個人の主観が介在するところであり、それぞれの好みやセンスの問題となるのだろう。

中国に関する主な二次情報ブックマーク先など晒してみる

解放網:http://www.jfdaily.com/
BBC中文網:http://news.bbc.co.uk/chinese/trad/hi/default.stm
RFA普通話http://www.rfa.org/mandarin/
VOA中文網:http://www.voanews.com/chinese/
人民網:http://www.people.com.cn/
新浪網:http://www.sina.com.cn/
新華網:http://www.xinhua.org/
当代中国研究:http://www.chinayj.net/
南方報業網:http://www.nanfangdaily.com.cn/southnews/
南方窗:http://www.nfcmag.com/
財経:http://caijing.hexun.com/default.aspx
東方網:http://www.eastday.com/
多維新聞網:http://www5.chinesenewsnet.com/index.html
明報新聞網:http://www.mingpaonews.com/
香港文匯報:http://www.wenweipo.com/
瞭望:http://203.192.6.66/
亜洲週刊:http://www.yzzk.com/
二十一世紀網絡版:http://www.cuhk.edu.hk/ics/21c/
開放雑誌:http://www.open.com.hk/
争鳴動向網站:http://www.chengmingmag.com/
中青在線:http://www.cyol.net/node/index.htm
光明網:http://www.gmw.cn/
新世紀:http://www.ncn.org/asp/zwginfo/index.asp
大紀元http://www.epochtimes.com/b5/ncnews.htm

(順番適当。勿論、毎日全部に目を通してるわけはないw)

 ネット時代の新聞情報のあり方という点も考えてみたい。特にニュースポータルについてだが、ポータルサイトという性格上、多数のニュースが集まってくる。それにサイト管理側が全て管理できているかという点は注意する必要があるかとも思う。新華社に見学に行ったときには担当者は「国情」に合わないBBS、「論壇」への投稿などはチェックしてます、見たいことをあっけらかんと言っていたが、ニュース記事まで紙面上と同じ様な編集意図を持って取捨しているのかどうか。この辺は一考を要するところであろう。どの新聞媒体からの引用かによって確認するのが無難に思われる。

*1:同時に広告収入を財源とする商業紙の登場などによってそうした状況にも変化が現われている。

「力」について

 

 力とは、人の、他の人の心と行動に対する支配の力である。そして、そのもっとも具体的で、判りやすい形として、物理的強制力、すなわち暴力が存在するだけであり、それにいたる過程には、さまざまな段階が存在するのである。

 したがって、これから先、軍事力が使用されることはなくなっても、さまざまな形における力の闘争はつづくと考えれれる。それは疑いもなく、これまでの力の闘争とはよほど変わったものとなるであろう。しかし、それはやはり、あらゆる手段を用いて他人を動かすことを目指した力の闘争なのである。それがいかなる形をとるかということ、そして、その新しい力の闘争に、いかに対処するかということが大きな問題なのである。

高坂正尭、「海洋国家日本の構想」『高坂正尭著作集・第1巻』、都市出版、1998年

 
 経済的相互依存関係がいかに深化しようとも、国際社会のアクターが多様化して主権国家の地位が相対化しようとも、軍事力を行使することのコストが高くつくようになってはしても、人間社会のあり様が根本的にでも変化しない限り、今後も国際政治は「力の闘争」の場であり続ける。結局のところ、我の意志を彼に強制し得るのは「力」でしかないからだ。そしてその「力」の最たるものには軍事力という物理的暴力が存在し続けるだろう。

 ゼロサムに陥ることを防ぎ、共通の利害を探り、適度な資源の分配を図るのが政治や外交のアート(術)ではあろうが、そのこととて「力」の背景とは無縁ではありえない。そして、誰もがより望ましい秩序を構築しようと闘争を続ける。結果、勢力の均衡は崩壊し、現状維持に利益を持つものと現状打破に利益を持つものの対立が先鋭化したりする。国際関係とは実に古代以来この繰り返しである。真に人間とは困ったもので、これからもそうだろう。

「よいこ」像の変遷に「中の人」を思う。

よいこの文化大革命―紅小兵の世界 (広済堂ライブラリー)

武田雅哉、『よいこの文化大革命』、廣済堂出版、2003年

 現在、「中国宏観経済与改革走勢座談会紀要」なんぞという糞長い文章をノートつけながら読んでいるわけですが、そこに丁度この本が配送されて来たので気分を変えようかと読んでみたところ面白くて一気に読んでしまいました。

 本書の内容は前回読んだ『〈鬼子〉のたちの肖像』(参照)と同じく、図像学的、系譜学的にある時代に描かれた、ある対象をトレースすることで、図像や言説の上に現われる「記号」の意味と、それがいかなる背景の下に形成されたのか、そしてそこに反映される中国的文化の影響を明らかにしようとするものです。今回は文化大革命期に発行されていた『紅小兵』誌を主な観察対象として、そこにあらわれる「よいこ」像を元にその辺を探っていこうという趣向です。相変わらずですが、そんな堅いこと抜きにしても、この文革期の「よいこ」像というのが後世の人間からすればもう目茶苦茶でありまして(現代史として経験した人には大変な時代だったんでしょうが、文革当時は私は生まれてませんし、ぎりぎりで)それらを読んでいくだけでも楽しめます(ちょっとくどいけど)。ここで「よいこ」の文化大革命ぶりを紹介してもいいのですが、そこはネタバレは控えるのが良いのかもしれません。

 その目茶苦茶加減を楽しんだ後は、党の宣伝部門あたりからあるべき「よいこ」像を指令されて、目茶苦茶な「よいこ」像を作り上げていく『紅小兵』誌の「中の人」の顰め面を想像しながもう一度読み返していくのもいいでしょう。そこに文革当時の政治背景やら権力闘争相関図などを加味して読んで行けば、中国政治を読み解く上でのリテラシーの様なものも見えてくるかもしれません(結構マジで)。

 あとがきに著者曰く、「今回は『紅小兵』という為政者主導の児童書が伝えようとしたものを、いわば「真に受ける」かたちで書いてみました。その過程で、中国のこども観やこども文化について、いろいろ考えることがありましたが、いずれあらためて書きたいと思います。」とのこと。ここは本書でもその一端にでも触れて欲しかったなあ。古典で何やら意味ありげな俗謡や予言を歌うのが大方こどもってのは関係ありますかね?

 兎も角、陽気に文革期の空気を知りたい人にお勧めの一冊です。

蛇足1
 上海動物園には本書に登場した「草原の小さな英雄姉妹」像があるらしい。知ってればパンダ見に行ったときに記念写真撮ってきたのに(同じポーズで)。

蛇足2
 最近、「若者は何で怒らないんだ!」とかほざいてらっしゃるおとなの方がいらっしゃいますが、「反革命的」ということで批判されたり打倒されないことに感謝した方がいいかも知れませんよw

ユートピアンとリアリスト

 もし目的が思考に先行して、思考の道筋をきめることになるなら、人間の心が新しい分野で働きはじめる場合に願望とか目標がつよく前面に出て、そこでの事実や手続きを分析しようとするゆき方を押さえ込み、この方向に伸びる芽さえ摘みとる形で事がはこばれることになろう。ホッブハウスは「原始の人びと」の特性として「ある考えが客観的に正しいということと、考えたようにあって欲しいと願うことが区別されない」ことをあげている。このことは政治学の段階でも同じで、これを「ユートピア的段階」とよぶことができよう。この段階での研究者はそこでの「事実」に注目したり、その原因、結果の分析に留意することはほとんどなく、かれらがめざしている目標を達成するために描いた設計―その簡明で完璧であることのゆえにかれらがみな引きこまれてゆく企画―の仕上げにもっぱら心をうちこむ。やがて、この企画が挫折して、願望や目標だけでは、めざす目的を達成することができないことをさとる。そのときにはじめて、かれらはやむなく分析に助けを求めることになる。こうして、その研究は、幼稚でユートピア的な時期から抜け出て一個の学として名のりをあげることのできる在り方になってゆく。

 願望に対して思考があたえる衝撃は、学問の発達過程においては、研究当初に夢みられた設計が挫折することにつづいて起きるのであり、この過程でのすぐれてユートピア的な時期の終わりを明示する現象で、一般にリアリズムと呼ばれている。それは、初期の段階にいだかれた願望にたいする反動であることから、どうしても批判的でシニカルな様相をおびることになる。思考の分野では、リアリズムは事実の認識とその原因結果の分析とに力点をおく。そこでは、目的の役割は重くみられないで、思考のはたらきは事態の生起―思考が影響をあたえることも変革することも出来ない事実―を研究することであることが明に暗に強調される。行動の分野においては、リアリズムは、現に活動している諸勢力の抵抗しがたい強さとか実際の諸動向の必然性を重視し、それらの勢力や動向を容認して自らも順応してゆくことが最も賢明な態度であると主張する。このような姿勢は、それが「客観的」思考であるとしてとられるとしても、結局は思考そのものの枯渇となり行動の空しさとなるのがおちであろう。しかし、それにしても、リアリズムが、ユートピアニズムの繁茂するさまを抑える矯正のはらきとして必要とされる段階があるのであり、同じように他の時点ではユートピアニズムが、リアリズムのもたらす不毛な結果を防ぐために呼び出されなければならないのである。

 ユートピアとリアリティとの対立―つねに均衡を保とうとしながら、なお揺れて、けっして完全には平衡を保つことのない天秤のすがた―は、多くの思考形式にあらわれる基本的な対立である。思考の二つのはこび方―何があるべきかを考えることに深入りして、何があったか・何があるかを無視してしまいがちなそれと、何があったか・何があるかということから何があるべきかを導きだしてゆくそれとが、あらゆる政治問題に対する姿勢を二つに分けることになる。アルベール・ソレルが言っているように、「それは、世界が自分たちの政策に順応するようになると考える人びとと、自分たちの政策を世界の現実に適応するように立てる人びととの間の終わることのない論争である。」

E.H.カー、『危機の二十年 1919-1939』、岩波書店、1996年


「人は見たいと欲する現実しか見ようとしない」 ユリウス・カエサル


「地獄へと至る道は、善意という名の石畳で舗装されている」 ヨーロッパのことわざ 

「侠」或いは秘密結社についての断片的メモ

 朋友N′s氏曰く「まとめられない文章はメモってことにすりゃいいじゃまいか」という素晴らしいことを言っておられるので早速マネすることにする。(参照

1-1

侠:
 子分をかかえて仲間どうしで協力する人たち。男だて。結社をつくり法に従わないが、義理がたい風骨を持つとして、中国では評価された。そうした人間を個人でも侠という。「侠客」「任侠」「遊侠列伝」。(『漢字源』)

1-2

侠:
 いわゆる任侠の風は戦国期に起こり、特に集団的に行動していた墨家の末流が、いわゆる兼愛的行動をとって墨侠とよばれた。都市に人口が流れ、他所者がふえると、氏族的秩序や伝統的な共同体的体制が失われ、私交をもって縄張りを張る任侠の徒が生まれる。古代の亡命者は盗(盜)、盗の都市生活者が侠であったと考えてもよい。(白川静『新訂・字統』)


1-3
 漢和辞典を調べてみたらこうあった。諸橋轍次の『大漢和辞典』も調べてみたが何やら難しい原典がずらっとあってよく分からんかった。「侠」というと黒道(暴力団、犯罪組織)を思い浮かべがちだが、「結社をつくり法に従わない」という点がその肝であろうと思う。ということで、中国で「侠」といえば、秘密結社が思い浮かぶわけである。で、適当に「中国の秘密結社」でググって見たところ、こんな説明が出てきた。


2-1

 一般に秘密の入社式を伴う会員制の組織や団体をいう。秘密結社は入社式を重んじる秘儀的秘密結社,政治的目的を有して地下活動を行うような政治的秘密結社および犯罪を目的とする反社会的秘密結社に三分することができる。入社的秘密結社は,結社への加入に際して入社式を施し,会員が組織内部の位階に応じた秘儀を通過していくこと自体に結社の存在理由をみいだしている。この種の結社のなかには,そうした儀礼のみを秘密にし,結社の存在・集会場所・教儀・会員氏名などは隠そうとしないものもある。(中略)中国の入社的秘密結社は,天地会の流れで 哥老会を含むホンパン※注1※にしても,羅教のチンパン※注2※にしても,西欧の秘密結社にみられる相互扶助的機能と相通ずるものをもっている。ただ,中国の秘密結社の多くは,白蓮教徒や義和団事件の長髪族などのようにしだいに政治的行動に走ったものが多い。
http://www.tabiken.com/history/doc/P/P156L200.HTM


2-2
 清末から民国にかけて秘密結社なり秘密宗教が中国史に与えた影響は少なくない。拝上帝会、白蓮教、義和団、天地会、小刀会、青帮、紅帮などなど。革命組織にその影響力を色濃く持っている組織もあり、民国政府の高官に青帮の親玉がいたりするぐらいである。それらは上記の分類でいけば、秘儀的秘密結社であったり政治的宗教結社であったり、あるいは両者と反社会的秘密結社の結合であったり、ギルド的な結社であったりと様々であるが、一義的には相互扶助的機能というのがそれら結社の求心力になるのだろう。
 
 人々は何故に結社するのか。上述の『字統』によれば、「都市に人口が流れ、他所者がふえると、氏族的秩序や伝統的な共同体的体制が失われ、私交をもって縄張りを張る任侠の徒が生まれる。」と説明している。伝統的共同体、氏族的秩序による庇護を受けられない、或いはそれらの構造が崩壊したが故に、人々は結社の相互扶助機能に救済を求めるわけだ。いつだったか、中国人の秘密結社について研究している学者の話を聞く機会があったが、彼の説明も中々に興味深いものがあった。改革開放以後、中国では様々な社会矛盾が表出している(その話を聞いたのはもう何年も前のこと)。貧富の格差の拡大、社会主義共産主義という価値体系の崩壊、絶えず競争に晒される市場化の波、人口の流動化。こうした社会背景の下で、改革開放の恩恵から見放され、法の庇護の下におかれない人々を吸収しつつ、結社や宗教が急速に復興している、というのがその要点であったかと思う。法輪功中国共産党に「邪教」認定されている)の拡大は言うに及ばず、仏教の復興、地下教会の隆盛などは、心の救済を求める人々が増大している典型的な例であろう。*1

2-3
 前に紹介した『中国激流』(参照)に農民問題専門家の于建糝の指摘を引用したこんな文がある。
 

農民は費用取立てなど負担が重過ぎるため、地元政府としばしば摩擦を生じる。「負担を減らせ。腐敗役人に抗議する」といったスローガンを叫び、集団で抗議を行うことも珍しくない。負担軽減を政府に要求するため、「負担軽減組」といった自発的な組織を作り始めている。
 これらの組織は、秘密結社のように口頭でメッセージを伝達し、文字による記録は残さない。紀律は厳格で、メンバーの役割も責任者もはっきりさせない。政府から「非合法組織」と見なされるからだ。

 農村の統治能力が低下するなか、政府から独立した自衛・生産互助・宗族(同じ先祖を有する父系血縁集団)などの組織もできつつある。兄弟会・同門会・減税救国会などの秘密結社が生まれ、堂々と「帮会」(秘密結社)と称している場合すらある。こうした組織は、革命前の伝統的な組織の特徴をそなえ、明確な政治目標をもっているものもある。*2

興梠一郎、『中国激流―13億のゆくえ』、岩波書店、2005年

3-1
 国家・社会関係という考え方がある。国家と社会の関係性のなかで、政治体制や社会のあり様を考えようという分析枠組みである。一般的な理解として(異論もあるが)、中共政権成立後、中国は党=国家体制により、党組織(すなわち国家)が社会のあらゆる組織に浸透し、国家が社会を全面的に政治征服するという体制が現出した。しかし、改革開放以後、市場経済原理の導入により、国家と社会の関係性も変容しつつある。無論、中共が党による一元的な支配、一元的な価値体系の構築を放棄したわけではないという条件の下でではあるが、社会のある部分においてはその自律性が高まっているのも事実である。西側の歴史を顧みれば、社会に現出した自律性は市民社会を形成し、やがて国家をして市民社会の基盤の上に国家が存立する民主主義体制に変容せしめた。中共は上述のような宗教組織、秘密結社を悪しき勢力として、これに弾圧を加えているわけだが、こうした社会に出現しつつある自律的な組織は、あるいは清末民国初にその萌芽が見られた中国的な意味での「市民社会」復興の表れなのかもしれない。それは恐らく西側の「市民社会」とは異質だし、異なる発展をたどるのだろうが。

3-2
 ここで注意しなければならないのは、歴史の連続性と歴史の非連続性という問題であろうかと思われるが、眠くなったのでとりあえず寝る。

*1:教会関係者に地下教会の様子を記録した映像を見せてもらったことがあるが、その映像は中々に感動的なものであった。生活は苦しく、貧しさから抜け出すことも出来ない。しかし、集会で他の信者と賛美歌を合唱することで救われると話す信者には、信心深くない私もほろっとしたよ。地下教会って何をやってるのかって、集会で賛美歌を歌ってるぐらいなのだが、集会の時には当局の弾圧を恐れて常に見張りのものが立つのが印象的であった。

*2:新書本ゆえに出典が明確ではないが、于建糝、「中国农村的政治危机:表现、根源和对策」『中国農村研究網』、http://www.ccrs.org.cn/article_view.asp?ID=3458に上述引用部分と同じ文章がある。また今は亡き『戦略と管理』誌で「負担軽減組」に関する于の文章を見たことがある。于の文中にある数百、数千、時には万にも達する農民の動員力とその行動様式には「侠」を感じる、というのが私の感想(「客観的事実」は知らん、感想ね)。