『信念と道徳』

『信念と道徳』

劉亜州(参照1参照2
 
 同志諸君、御機嫌よう。

 本日は、本来大講堂で諸君に講演する予定だったが、私にはあの場所は大きすぎる嫌いがある。私が一人で寂しく主席台の上に座って、諸君が下のほうに襟を正して座る。それでは我々の間の距離が開き過ぎる。それ故私はこの大教室を選んだ、それは同志との距離を近づけたいと考えたからだ。私は諸君が既に慣れ親しんだ、伝統的な意義しか持たない報告はしない。私はただ諸君とちょっと思想交流をしようと考えている。私が喋ったことを、諸君はそのまま聞けば良い、記録する必要はないし、録音する必要もない。間違ったところは私自身が責任を負う。その他の領導同志たちが諸君にする報告と比較して、私が話すことの起点は低い、高度もない、それにそんなに深くもない、彼らの報告の様に、「高邁」で、そして「深く掘り下げた」ものではないし、気力を奮い立たせるものでもない。私は常に小さいところから手をつける。今日、私が話すのは二つの問題についてだ、一つ目は信念の問題であり、二つ目は道徳の問題であある。

一、信念の問題

 マーティン・ルーサー・キングは「私には夢がある」と語った。彼と同様に私にも夢がある。強軍の夢と強国の夢だ。この二つの夢は、実は一つの夢なのだ。これは夢だけに止まらず、私の強い信念となっている。我々は軍人である。私と比べて、諸君は若い軍人だ。私が国防科技大学で教えたころ、毛主席の「世界は諸君のものであり、そしてまた我々のものだ、しかしとどのつまりは諸君のものだ」との言葉を真似て、軍隊は諸君のものだ、そしてまた我々のものだ、しかしとどのつまりは諸君のものだ、と言った。今日ここに座っているこの同志たちのものなのだ。諸君は軍隊の明日である、それ故に諸君はまた軍隊の太陽なのだ。私はこの軍隊を非常に熱愛している。私は十五歳で軍に入り、現在で既に三十四年が過ぎた。私は既に軍に青春を奉げた。私は必ず軍に一生を奉げるだろう、子孫までは軍に奉げるかどうかわ言えないが。私は軍営で生まれ、軍営で育った。私の父もまた一人の老軍人であった。1939年、彼と彼の故郷の六人の青年農民は一緒に八路軍に参加した。惨烈な孟良崮戦役中に、その他の六人はこの戦闘中に戦死した、私の父だけが生き残ったのだ。二年後、私の父は営教導員となった。淮海戦役では、父が所属した二十一軍一八七連隊は王塘が邱清泉兵団の攻撃を阻止していた。戦いは残酷を極め、終には守備についた王塘の連隊は残すところただの六人となった。敵は潮のごとく湧いて来る。父は十年間肌身離さず持ち歩いた小さな包みを開けた、中には祖母が彼に与えた布の靴が入っていた。彼はそれを履くのに忍びず、十年間それを背負って、万里の道を歩いたのだった。この最後の瀬戸際に際して、彼はそれを履こうと思った、そしてそうしようと試みてやっと二足とも左足の靴だと気づいたのだ!父は私にこの話をするとき笑うのだが、私は却って悲しみがこみ上げてくるのを感じるのだ。我々の軍隊はどれ程の父のような朴実な農民によって成り立っているのか。どれ程の人が今日の為に散って、我々の前面に倒れたのか。

 我々は正に一つの新しい時代にある。訒小平同志の改革開放政策は古い中国の大地の上に大いに異彩を放った。軍隊の地位は依然として重要である。改革開放以来、中国の軍隊は既に二度の政治上の大きな役割を発揮している。そしてこれからも役割を発揮し続けるだろう。どの二度であろうか?一つは「六四」の政治騒乱である。小平同志はこの騒乱は遅かれ早かれ発生したものだと語った。発生が避け得ないものなのなら、早い発生が遅いものよりよい。「六四」の後、我が国の改革開放事業は際立った新たな一ページを開いた。最近皆が学習する「十六大」の政治報告のなかに、一つの重要な命題がある。それは、十三年来江沢民同志を核心とする党中央の燦然と輝く業績である。この「十三年」とは何時どの分野からか?「六四」からである。この様に言える、「六四」の問題解決がなければ、我々の国家の今日の繁栄と隆盛の局面もなかった。すなわち、軍無くば「六四」の問題は解決することは不可能であったし、この十三年の輝きもまた不可能であった。6月4日のあの早朝、北京城は一夜の倒海翻江の後に突然の平静がやって来た。数多くの清場部隊が天安門広場に集結し、次にどの様な事態に発展するのか分からない、神経の張り詰めるものであった。あの日の午前、北京市のあらゆる電話は不通になった。なぜ電話が通じなかったのか?なぜなら、全ての市民が家の中に身を潜めて電話をしたので、電話は直ぐに負荷を超えて麻痺したのだ。流言は足を伸ばしたようであり、全国に飛んだ。西側は大げさに表現した。全世界の視線が天安門広場の上に集中した。当時、楊尚昆主席はこの様な言葉を言っている。「‘六四’のこの日の早朝天安門広場でもし部隊に問題がでれば、とんでもないものだ。」しかし、我々の軍は党の指導の下の軍である、この様な部隊は無かった。軍は試練に耐え得たのである。軍は「六四」のために大きな代償を支払った。今日の正午食事の時に、昆明基地政治部の袪本発主任とこの問題を話した。北京で徴兵されるのはとても難しいものだ。「六四」の時、北京のあるものたちは解放軍の入城のを妨害していた時に殺害の手を下したのだ。解放軍を害する行為は人をして憤怒させる。六十三軍の小隊長劉国庚は六ヶ所に及び傷つけられ、その後生きたまま焼かれた。三十九軍の分隊長崔国正は崇文門で焼死して吊るされた。六十五軍の分隊長李国瑞は阜城門で焼き殺されたのち吊るされた。後に楊尚昆主席は三烈士の家族と接見した。ここに一つの奇妙な現象が見られた、当時楊尚昆主席は直ぐに気付いた。楊主席は、この三烈士の姓名には何れも「国」の字があると言った。諸君見たまえ、劉国庚、崔国正、李国瑞、この凄惨に死んでいった三烈士の名前の中に全てに「国」の字があるのだ。楊主席は、彼らが国家のために力を尽くし、最後の一滴の血まで流しきったのだと語った。中国の軍隊が「六四」事件にあって役割を果たし、江山を安定させた。これは軍が新時代に為した一つ目の貢献である。

 もう一つは1979年のベトナムに対する自衛反撃作戦と後の「両山」(老山、者陰山)作戦である。特に1979年のベトナムに対する自衛反撃作戦は、我々の多くの同志がこの戦争の意義を知らないでいる。当時ある人がこう言った。我々はベトナム人と戦っている、今犠牲になっているのは烈士だが、将来一旦両国関係が良くなった後は、彼らは何なんだ?私はこう言った。「依然として烈士である!」なぜか?この戦争を我々は政治上の角度から見る必要がある。戦争の意義は往々にして戦争の外にある。小平同志のこの戦争は二人のものに戦いを見せるためのものなのだ、一人は中国共産党、一人はアメリカ人である。小平同志は1978年に復活して、79年1月に訪米し、2月には戦争を始めた。政治的に語れば、この一戦は戦わざるを得なかった。なぜだろうか?小平同志は復活して後、中国の改革開放の青写真をすでに心の中に描いていた。もしこの青写真を実現しようと思えば、党内に絶対の権威を樹立しなければならない。一戦しなければならないのだ。あの時「四人組」は粉砕されたばかりで、党内に極左思想の人物は大勢いたし、反訒勢力は、さらに彼の路線と政策に反対していた。改革しようとすれば、権威がいるのである。最も早く権威を樹立する方法は戦争だ。劉裕はこの様にしたのだ。当時多くの人が戦争に対して反対した。解放軍は「文化大革命」を経て戦争できないと。しかし訒小平は有言実行、衆議を排した。2月17日、解放軍は大手を振って潮の如く国境に湧出した。二人目のアメリカ人だが、この意義は更に大きい。今日で小平同志が我々の下を去って五年である。しかし私はずっと彼が我々の傍にいると感じているのだ。李献忠(北空政治部秘書処処長-編者注)は「それにしても我々の毛沢東は偉大だ」と言う。私は次の様に言っている。「それにしても我々の訒小平は考えれば考えるほど偉大である」。時間が経つほど小平同志の偉大さはますます我々に触手をとどかせる。彼は我々を指導して全中国の方向をひねり出したのだ。見たまえ、この戦争は1979年に戦ったものだ。1975年にアメリカ人は損兵折将して後に狼狽してベトナムから撤退した。小平同志がベトナムに教訓を垂れると言った。あの時ベトナムは誰と走っていたのか?ソ連と走っていたのだ。小平同志はこの時ベトナムに対する自衛反撃作戦を発起した、これは自らが、中国自らがいわゆるソ連社会主義陣営と一線を画したのだ、当時多くの東欧国家は不満であった、彼らは社会主義国家が社会主義国家と戦争すると言ったものだ。小平同志はこう見ていた。君らのこの種の社会主義は、嫌でも終わる。結果どうなったか?偽社会主義は生命力を持たなかったのだ。1989年、全ての東欧社会主義国家は崩壊していった、ソ連でさえ崩壊したのだ。十年前、小平同志はこの点を見ていた、この戦争をもってあなたとははっきりと一線を画すと。小平、全くの奇人だ!さきほど私はこの戦争はまたアメリカ人のために戦うと言った、すなわちアメリカ人のうっぷんを晴らすためだと言えよう。改革開放はアメリカを代表とする西側国家の援助が無ければ不可能なものであった。この一戦は、アメリカの中国に対する経済援助、技術援助、科学技術援助含む軍事援助と資金源を続々と中国にもたらした。中米間の蜜月は十年の久しきに及び、それは1989年6月4日にようやく終止符を打ったのだった。この一戦が中国にもたらしたものは何か?中国に大量の時間を与え、大量の資金を与え、大量の技術を与えた。そして、これら全てが「蘇東波」(訳者注;ソ連東欧波)後の中国がまっすぐ立ち続けることを確保したのだ。その功の何と偉大なことか。もっと言えば、中国の改革開放の第一歩はこの戦争の中から踏み出されたのである。この意義から見れば、中国の軍隊の中国の改革開放に対する貢献は計り知れないのだ。(続く

(中略)

 
 続いて、「両山」作戦に参加した部隊の基層幹部、士卒がいかに貧しいかと言う話に続く。一部を抜粋すると「・・・・ある戦士の家庭はとても窮乏していて、彼らの遺書は一字一字が血であり、一声一声が涙である。烈士は遺書のなかで、もし自分が死んだなら、公社は自分の家に一頭の牛を与えてくれるように言っているのだ。あるものは、もし自分が死んだら、自分の軍装を脱がせて自分の故郷に送るように言っている。自分の兄弟が満足に服を着ることもできないのだ。・・・・」どこかの農村の救済を訴える青年将校を思わせるものがある。

 また続けてかなり唐突に、劉亜州が小説の題材にしたという「王仁先」という漢人将校と苗族の美しい娘との戦場における悲恋が描かれる。王仁先の朴訥とした喋り方を「高倉健」の様な喋り方と表現しているが、反日将校にとっても健さんは別格なのだろうか。

 これらの部分は作家出身の劉亜州の本領が発揮されている部分かと思われるが、作家としての劉亜州に興味のある人はあまりいないと思われるので割愛する。コイバナは書いていて恥ずかしいし。省略したこの部分からは、軍事ロマンチストとしての人となりが見えてくるような気がする。