『信念と道徳』(2)

『信念と道徳』(2)

劉亜州(参照1参照2

承前

 (中略)

 私には、中国における真のエリートと真の改革者は、軍にその大部分がいるとの視点がある。ここには一つの法則がある。すなわち、より文明的国家、より発達した国家においては、その軍は一つの保守的な力なのである。アメリカの軍隊は絶対的に一つの保守の力である、ドイツも、フランスも、イギリスもそうだ。より文明の程度が高くない国家においては、その軍は恰も一つの改革の力である、世界中でそうなのだ。パキスタン南朝鮮、フィリピン、アルゼンチン、チリ、エクアドル、ブラジル、全てこの様な例だ。これは法則なのだ。アメリカ軍人は相当に保守的である。アメリカ軍人の保守は作戦観念が保守的というのではない、その政治的な意味において保守なのだ。例を挙げて説明しよう。アメリカの軍人とアメリカの政治家が中国を見る目は同じではない。アメリカの政治家は中国の台頭が世界にとって重要な問題であると見ているし、アメリカにとっても重要な問題と見ている。彼らはは中国を封じ込める他にも、中国と協力する必要があることを理解している。アメリカの軍部の観念はもっと保守的だ。彼らは、新世紀にアメリカが五十年乃至は百年は弱体化しないことを確立するために、イラク、シリア、アフガンといった小国家を懲らしめるだけでは足りず、必ずある大国を懲らしめることを必要である、と考えている。彼はその大国を中国と定めている。これは世界的な角度からの話だ。次に、中国の角度から話をする。「文化大革命」は一つの断層だ。文革中にあってはその他の発展する道がない、だた一つだけの発展する道、それこそが軍隊だった。それ故にあの当時の若者の中のエリートは皆部隊へとやって来た、部隊に来ることひきりなしであった。部隊は現在当時来たった団以上の幹部のもので、無能者はいない、もしいるとすれば、それは彼がその様に装ってるのだ。これらの人が部隊に来なかったら、地方に留まり続けただろう。私には一つの言い方がある。それ故に「職務相当」であると。どのような意味か?今日の部隊における団職以上の幹部が部隊に来なかったら、地方で県級幹部に混じっていただろう。今日の師団級の指導者は地方では地市級幹部であったのは間違いないだろう。「文化大革命」と、改革開放を経て、中国の軍隊はすでにかなり成熟した。近代化に軍隊が参与しないというのは実現不可能なことなのだ。ましてや中国の民主化と法制化の進展に対しては、軍は全てに参与できる。中国の軍隊の任務は重く道は遠いのだ!歴史が我々軍隊に与えた使命を完成する為、更に多くの人材が必要だ。軍にはすでに多士済々があるが、未だ不足なのだ、さらに多く、もっと多く必要なのだ。人材を育成することは当面の急務である。これは江主席の言葉だ。特に人材の個性と共通性に注意する必要がある。今日はこの問題について話し見よう。

 個性の問題である。個性の問題は少なくない、私はここで主に地域性について話す。多くの人が人材について研究するときこの点を軽視するが、実は非常に重要な点である。一つの現象に諸君は必ず注意しなければならない、党の第一代指導者はその多くが長江流域から輩出されている、特に多いのが湖南省だ。それは二つの側面に関連している、一つはアヘン戦争であり、一つは湘軍だ。1840年、イギリスが大砲を以って中国の大門をこじ開けた後、西洋の中国に対する侵入は東南沿海から始まり黄金水道たる長江に沿って内陸に徐々に浸透していった。長江流域は風を先取りしたのだ。科学技術、文化、製造業はこれによって発展した。思想は目覚しく一新したのである。留学潮の第一波の主要な部分は長江流域から始まった、最も遡れば四川にまで及ぶ。太平軍は決起して、長江沿いに東に下った。湘軍はまた軍を起こして、長江沿いに東に下ったのだ。湘軍が南京を攻め落とした後、曽国藩は湘軍を解体した。湘軍の将士は戦争中に略奪した大量の富をもって長江を上って、湖南に帰った。これらの金を彼らは二つのことに使った。一つは家を建て田地を求めることで、もう一つは学堂の運営である。毛沢東などの指導者はこの時期にこうした学堂に進んだのだ。湖南文化は勃興し、故に当時「中国には一日と言えども湖南なしではいられない」との言葉があったのだ。地域の部隊に対する影響は極めて大きい。京津地区の部隊には自身の特徴がある。成都地区の部隊にはその特徴がある。昆明地区の部隊にはまたその個性がある。京津地区は政治文化の中心である。北京地区では一般人も皆政治にとても関心がある。軍隊も生活の真空中にあるとは言えず、政治にとても関心がある。人々は皆小政治家なのだ。しかし、一度危急肝心の時を迎えれば、京畿の部隊ほど使い物にならない。「六四」の時の典型例が北京軍区の三十八軍と二十八軍だ。三十軍の軍長徐勤先は一人の将才だった。彼は戦車第一師団の師団長をしていた時、私は彼の演習での指揮を見たことがある。彼はだらしない格好で椅子の上に座って、いや、テントの中の椅子に半ば横たわって千軍万馬を指揮するのだ、頭脳は明晰で雷光のようであるし、整然と秩序だっている、帷幄の中にあって策略を巡らせ、千里の外に戦を決するの気勢があった。中国の軍においてこの様な人は多くはない。彼と実力が伯仲するものには、×××と×××がある。彼を超えるのは蘭州軍区の×司令官だけだろう。惜しいかな徐勤先は政治的には頼りにならなかった。「六四」の期間、北京は急を告げ、北京軍区司令官の周依氷は自ら車を運転して保定まで来た。徐勤先に部隊を率いて北京に入らせるためだ。徐勤先はまず、中央軍事委員会の命令はあるのかと聞いた。周はあると答えた。徐はまた尋ねて、小平同志の命令はあるのかと聞いた。周はあると答えた。徐はまた、常務副主席の楊尚昆の命令はあるのかと聞いた。周はあると答えた。徐はまた、軍事委員会第一副主席の趙紫陽の命令はあるのかと聞いた。周は無いと答えた。徐はならばこの部隊は率いることが出来ないと答えた。周依氷は徐勤先の鼻先に指を突きつけて、「私はお前の嫁が裁判官だと知っている。お前の二人の息子も天安門にいるんだろ!」と言った。三十八軍は京津地区に駐在した。二十八軍もまたこうだ。二十八軍は6月4日の早朝天安門広場に部隊を進めた。前夜の混乱の中で、多くの部隊が既に攻撃を始めていた。群衆は木樨地(訳者注:地名か?)で二十八軍を阻止した。二十八軍の軍長何燕然は装甲車の上に日よけを設えて、前を見てこういった「一面の青い帳の様だ。(訳注:作物が一面に青い様子を形容する言葉)」どういう意味か?群集が多いこと青い帳と言っているのだ。自分は外国人にでもなったつもりなのか?彼の政治委員もまた十分にくそったれだ。政治委員は一句続けて「十万青年十万軍」などと言ったという。二人はあの場にあってなお詩をつくっていたのだ。劉華清副主席は空軍の王海司令官を呼んでヘリコプターを派遣して彼らに「前進せよ!一切を省みず前進せよ!」と叫んだが、何燕然は全く聞かず、政治委員に将来軍事法廷に行くのは自分か君かなど言っていたのだ。後に劉華清副主席は大変怒って、「亀が頭を出さない」と言ったのだった。私が成空に移動した後、私は成都地区の部隊を研究した。空軍機関には一つの面白い現象がある。どの地区出身の幹部が多いのか?私が大雑把に計算したところによると、蘭州地区の幹部が最も多い、その次が瀋陽だ。なぜだろうか?広州地区の幹部はまず行かない。生活が比較的よいからだ。南京と華東地区の生活も比較的よい。北空は北京だからまた行きたくない。問題は成空の幹部も行かないのだ。彼は成都を離れたくないのだ。これは文化がそうさせるのだ。成都平原は盆地である。四川人にはある種の「盆地意識」がある、進取を思わないのだ。黄濤(編者注:単位、職務不詳、作者の友人と思われる)は「視覚盆地」といった話をしたことがある、この言葉で成都平原を形容するのは大変適切だ。地理の要素の他にも、歴史の要素もまた存在する。昔から、成都地区に割拠したものは、公孫述から明の玉珍、張献忠まで、中原に対しては守勢の戦略を取っていた。諸葛亮が祁山に六度、部隊を率いて曹魏と戦ったが、実際上は攻撃をもって守りとなすものであった。彼は攻めたくなくとも、守りは守りに安住できないと知っていた。彼は本当の目的を隠すのに成功したのだ。訒乂は伐蜀して、江油と綿竹を攻略した後、後続部隊も来ず、自らも疲労困憊して、自分の部隊は終わったと説明した、しかし前進することを堅持してひたすらに前進した結果、蜀国を粉砕した。半日の後にもともと蜀国の国力は空虚なものであることが明らかになった。昔から成都人はみな守勢を取る、それは今までずっと続いている。諸君は成都の「川軍出川作戦記念碑」を見たことがあるだろう、しかしそれに疑問をもたなかったか?中国人が国の為に戦うのに、なぜ省籍を分けるのか?諸君は湘軍出征したら「湘軍出湘記念碑」を建てる必要があると思うか?河南人が出征したら「予軍出予記念碑」が必要か?抗日戦争期に川軍が四川を出て作戦するのにのみ、記念碑がいるのだ、恰も四川人の守勢の心持ちを印象付けるものだ。しかし一つの事物には二面性がある。成空部隊は辺境の厳しい地区にある、部隊を指揮して、部隊がその様な奮闘する情景を目撃すれば、霊魂に洗礼と衝撃がもたらされるだろう。成空の指導層は一般に皆名利に対して淡白だ、その所以はここにある。昆明基地のレーダー団のある小隊長は、月給400元で、毎月寝たきりの父母に200元送り、子供の学校に105元支払い、生活費は僅かに数十元だ。四方は壁だ。しかし、苦しい所に十年もいる。空軍の丁文昌政治委員は彼を見て「良くやっている。敬礼させて欲しい」と言った。小隊長は涙を流した。これが最高の表彰だったのである。諸君の昆明基地は雲南に位置する。ここは「老山精神」の発祥の地なのだ。諸君らは最も良い場所にある。「老山精神」はある種の貢献精神であり、恐れを知らない勇敢な精神だ、これは我々の世代が記憶しておく価値があるものだ。(続く