『信念と道徳』(3)

『信念と道徳』(3)

劉亜州(参照1参照2

承前

 共通性の問題。我が軍幹部の三つの普遍的問題:

 1,真実を話す勇気に欠ける、当然また真実を話す能力に欠ける。去年、中央軍事委員会と江主席の批准を経て、国防大学は正規の軍職にある幹部の研修班、俗称「龍班」を組織した、全軍から選ばれた三十名の正規の軍職以上の幹部が学習に赴いた、空軍からは三人が参加し、私と、空軍副参謀長の何為栄、瀋空司令官の許其亮である。何と許は傑出したパイロットでもある。彼らは私の上級指導者であり、私には世話になった恩がある。入校して一週間目、その他の学員は学校の規律制度、教師、課程などを研究していた。私が研究したのはその他の二十九人である。私は学校を研究しない、私が研究するのは人である。彼らが学校を熟知したころ、私は彼らを熟知した。私が得た結論は、第一に、部隊中にはまだ人材がいるが、ここに来ているのは最高の部類の人材であること。第二に、将来の軍事委員指導者、総部指導者はこの三十人から輩出される、さらに上に行くもの出るか分からない。ただ、もしこれらの人が私も含めて、学習と修養を強化せねば、それは軍事業務者、政治業務者であって、軍事家や、政治家と称されるものにはなれない。これが「者」と「家」の関係である。これらの人は我々の代の軍人の化身だ。彼らの上に全軍がかかっている。ある者は最高峰に既に近づいている、しかし後一歩なのだ。この僅かな一歩だが、一生上ることがない。我々これら高級幹部が最も欠如しているのは三つである、すなわち、独立思考、逆向思考、敢えてノーと言うこと、の三つである。敢えてノーと言うことは決して命令に服従しないことではない、指揮に従うことは、正に更に良い命令に服従し指揮に従うことなのだ。レーニンも嘗て語っている、上級の意図を全くそのまま貫徹することは最も良い消極的な怠業である。これが大意だ。人と思想は水と同じである、流動状態にあるものだ。諸君がこれを流動させなければ、この水は直ぐに腐臭を放つであろう。一面の死水である!水の形態はまた自由な形態だ。人の世にあって最も自由な形態はすなわち水だ。どこにでも流れることができるし、どこにでも敢えて流れていく。穴が無ければ入らないだろう。人の思想もこの様なものだ。過去のソ連共産党の教訓と我が党の歴史経験、これらは諸君に語っている、人の思想を軽視し人に思想を強制することは重大な代価を支払わせる。毛主席が解放初期に語ったが、我々の党は敢えてあれこれと下らないことに思いを巡らす人を育てなければならない。総政治部連絡部部長岳楓、葉剣英の息子だが、は一挙手して言った、「私が志願します!」アメリカのランド社には一つの有名な社訓がある「怪論を保護すべし」。怪論は往々にしてある程度の時間が経つことによって心理になる。江主席は更に我々が思想を解放するようにと再三訓戒している。私は職に常に言う、思想を解放すること、先ず思想を得ることである。諸君は思想さえ何も無い、解放するものさえ無いのだ。人をして下らないことに思いを巡らさせるのは決して悪いことではない。必ず思想の安定と社会の安定の関係を宜しく処理する必要がある。思想がより活発であれば、すなわち社会もより安定するのである。思想がより自由であれば、すなわち社会はより前進するのである。反対に、思想がより抑圧されれば、社会は不安定になる。「文化大革命」にあって、「四人組」は無恥にも人民の思想を強姦したのみならず、彼らは甚だしきにいたっては人民の思想を「輪姦」したのだ。この様な悲劇を再び演じてはならない。私は歩兵中隊の出身だ、私が最も深く体得したのは次のことである。私は中隊長になった後にやっとどの様に分隊長の職務に当たるのかを知ったのだ。ある人は官となって一生、死ぬまでこの官がどの様に当たってよいかものか知らない。ある人は一生別の人の思想を攻撃する、実際からは自分の思想が最も攻撃を受けるべきだと知らないのだ。総政治部組織部の訒正明部長は退職時に、一つの深い言葉を言った。「私が官歴中の最も身に沁みて分かったのは子供と多く交わり、大人とは少なく交わる、古い友人を忘れず、親友を定める。」彼が言っているのは友人のことだけだろうか?そうではない、彼が言っているのは思想なのだ。私や諸君は理解できないかも知れない。私には何も無い、しかし思想はある。物質的に言えば、私もまた最貧かも知れない、精神的に言えば、私は必ず最も富んでいる。私は何でも諸君に与えることができる、しかし思想は与えることはできない。私は絶対に「思想主権」を譲ることはできない。小平同志が行っている様に、「主権問題に関する談判は容認できない。」私が自身の「思想主権」を握っている故に、私は嘘は言えないのだ。人が話すことには最低限の線があるはずで、これらの最低限の線は次のようなものだ。一、極力真実を話す、二、真実を話せないなら沈黙を守るべきだ、三、沈黙を守れず嘘を言わざるを得ないなら他人を傷つけるべきではない。現在、指導幹部は率先して真実を話す必要がある、真実を話すのが好きな人間が必要である、更に敢えて真実を話す人を用いる必要である。しかし、通常の状況としては、「真実を話せば指導者は喜ばず、嘘を話せば群衆は喜ばない。」当時我々が林彪を批判した時、彼が井岡山にあったとき毛主席に反対したことが言われた。原因は当時林彪が毛主席に送った「紅旗は一体いつまであげていることができるか」の問題に触れた手紙である。林彪は後に罪人となったが、このことに関しては彼はすばらしい、すばらしいばかりか、また有益である。ある下部の幹部がこの様な形式で党の指導者に自己の観点を反映させる、自己の意見を提出する、これは良い事だ。もし自己の観点が欺瞞され、上部が何か言ったことに従って何かを言う、これでは正しくない。林彪は自分を欺瞞することながなかった、彼の観点は謝ったものだったが、それでも敢えて上部に向かって反映させようとした、これはある種今日奨励すべき精神である。林彪がこの問題を提起したからこそ、毛主席は千古の名編『星星之火、可以燎原』を書くことができた。もし林彪があの問題を提起しなければ、毛主席はこの文章を書けなかったのだ。

 2,知識。私が言う知識は、ただ文化の程度指しているのではない。私が言う知識とはある種の総合的な素質なのだ。今日の知識分子は、私は彼らに言うのだが、私は諸君を知識分子とは考えていない、諸君はただの「事実を知っているものたち」だ。諸君が理解していることは少なくない、読書量も少なくない、しかし本当の学問は駄目だ。本当の知識分子は書籍の知識が有るのみならず、実践の知識も必要である。学習は、第一に研鑽することであり、第二に飛び出すことだ。重要なのは研鑽することで、更に重要なのは飛び出すことである。自ら会得することが必要である。軍は大任を担っており、更に多くの知識分子が必要だ。開放改革以来、我が軍は少なくない大学生を募集している、しかし状況はどうだろうか。私が北空に在籍したときに調査を行ったが、それは悲しくさせるものだった。80年代に始まって2000年までに、大学から応募した本科大学生は1800人強である。この1000人以上の中でキャリアクラスのもの、中隊長クラスのキャリアも含めるが、は僅かに十一人がいるのみなのだ。大部分のものは去ってしまった。何故なら彼らに創造的な環境を提供できないからだ。彼らを留めることはできないのだ。平和な時代にあっては、指導者の水準はすなわち知識分子を使用する能力である。井岡山時代は、指導者の水準は工農幹部を使用する能力だった。知識分子を用いるというこの問題上、指導者には私心があるだろうか?一流の指導者は敢えて一流の部下を使わない、敢えて二流の部下を使うのだ。二流の指導者は敢えて三流の部下を使うのである。この種の武大郎意識はあるべきは無い。斉政治委員は言った言葉は深刻だ、「皆成空の水は濁っていると言う。私は濁ってないというのだ。なぜなら龍がいないからだ。」良い言葉だ。龍とは何か?龍とはすなわち人材だ。用いるべき人は非常に少ない。一旦師団職の軍職に空きが出ると、時々人がいないのを感じる。成空には確かにこの問題がある。しかし、最も人材が欠乏している地域は、往々にして人材を最も抑圧している場所なのだ。諸君は根本的に養成されていないのだ。我々はこの問題を深く考え大いに目覚めなければならない。諸君は彼を育成しなければならない、彼に創造の条件を与えなければならない。諸君は彼を用いなければならない。猿に一本の木を与えるが如く、虎に一つの山を与えるが如く。我々の改革開放の精髄の一つは、読書人に金を稼がせるものではないし、金持ちに学問させるものでもない。道理は同じなのだ。ある人が嘗て言った、私は読書人だが金がある、私は金持ちの中で最も学問をしている。ある省党委の指導者が言った、私は読書人の中では、私の職務がより高い、職務がより高いもののなかで、私は学問がある。私はこの言い方を借りて、軍人の中で、私は学問がある、読書人のなかで私は軍人だ、と言っている。今年は作風が変わる年である、成空は高学歴の人材を用いるとの決心をすべきだ。知識のある幹部に一本の開けた道を与える、調査は既に終わった、次は使用するときだ。どの様に使うのか、私はまだ考えている。私は探索を恐れない、前進を恐れない、転倒を恐れない。諸君は「胎瓜効果」を知っているだろう。一つのスイカは幾つかの実をつけるが、第一の身を胎瓜という。この胎瓜は恐らく苦い。しかし、後になるものはより甘くなっていく。この第一番目の苦いものがなかったら、後の甘い実もないだろう。ならば私をこの第一の胎瓜にさせてもらおう。道を間違うのを恐れない、諸君は迷わないだろう。進むのを間違うのを恐れない、諸君は迷わず進むだろう。

 3,幹部の選抜制度は改善が待たれる。現在我々幹部の選抜制度はすでに古代の試験制度ではない、また西洋の民主制度ではない、またさらに競争制度でもない。我々の制度とは何か?それは伯楽制度だ。この様な伯楽制度は幾つかの制度の中で最も遅れた制度である、また使えない制度だ。封建の残余は一日で根本的に除くことはできないのだ。厳複の名前を諸君は聞いたことがあるだろう?彼は英国留学時に、嘗て日本の後の首相伊藤博文と同級であった。彼の成績は伊藤博文より特に優れていた。帰国後、伊藤博文は二期の総理大臣を担任し、二つの戦争を発動し、日本をして近代化の路線を走らせた。厳複はどうか?帰国後は無名で、ただハクスリーの『天演論』を翻訳したのみだ。ただこの厳複はある言葉を残した。私はこの言葉が、彼をして不朽足らしめると考えている。彼は、二千年来の中国のいわゆる国家は、実は只の家であって、国が無い、国は一つの姓の家であり、興は、一家の興であり、亡は、一家の亡であると言った。厳複は中国の社会形態の天機を喝破したのだ。孫中山は後に革命に投じて「天下為公」の四字を高く掲げた。清朝が滅んで既に百年近くである、しかし反封建の使命は依然として終わっていない。それは非常に強固だ。それは表面には存在しない、それは人々の潜在意識の中にあるのだ。北京の非常に著名な知力プログラム『SK状元傍』で、教師が学生にある問題を出した、“WHO IS THE MAN THAT EVERYONE ADMIRES AND VERY MUCH WANTS TO BE?”(皆が憧れ、そうなりたいと思うのは誰か?)学生はすらすらと“KING”(国王)と答えた。しかし答えはHERO(英雄)だったのである。諸君見たまえ、中国と西洋の差異はこの様な簡単な問題のなかにも確実に誤り無く現れるのだ。しかもそれらは十六歳の学生だ、我々の未来なのだ。我々はよく誤ってもまだ自覚しないということがある。諸君らが皆聞いたころのある一句が有る、「良き作風を用いるのが良い作風の人を選ばせる」、これは公然と『求是』誌の上に書いてあるのだ。間違いなのだ。これは典型的な人治のものなのだ。諸君が良き作風を用いれば作風の良い人を選ぶことができるのか?これが第一。第二に、誰が諸君のこの良い作風を信じるのか?諸君の良き作風の基準は何なのだ?第三に、諸君は何を根拠に選ぶのだ?群衆から選ばなければならないのだ。私は中央電視台の放送員が最も嫌いだ。現在の中央電視台の若い放送員は年を取った放送員の複製品だ、全く同じなのだ。私はその理由を年を取った放送員が、皆自分に似ているものを、自分の娘や息子と同じ様なのを選んでいるからだと言おう。当然幹部の問題上、中国には自身の国情がある。順調に漸進し、条件が整えば順調に運ぶことだろう。しかし我々が実行するに早くなく、また遅くも無いのが、幹部の選抜を出来るだけ民主で行うことだ。民主とは何か?民主は一言で言えば、多数統治である。諸君が幹部を選ぶのだ、伯楽制度の幹部選抜を用いるのことのどこを恐れるのか、そしてさらにそれは大多数のものがよしと言うことによってやっと実行されるのだ。非常に多くの同志が我が国の幹部年齢制度に聊か意見がある。年齢制度は民主選抜幹部制度に対するの多くの実際にあってより厳しいもの一つだ。才有れば惟是を挙げる、惟年齢で是を挙げるのではないのだ。ある人は五十歳になればもう駄目だ。トルストイは八十歳で『戦争と平和』を書き上げた。幹部は早くに用いるのもまた妥当ではない。幹部の任用は鉄砲を撃つのと同じで、「放物線」がある、「最高値」を取る必要があるのだ。私は諸君に瀋空の許其亮司令官の例を挙げる。許司令は大度があり、心は海の様に広い。政治の頭脳がある。私は自分が政治幹部の中で軍事を理解しているものだと言っている。許司令官は軍事幹部中でも政治を理解している人だ。彼は四十四歳の時に大軍区の副職となり、もうすぐ十年になろうとしている。「大限」は既に来ている、年は尚若い。私はある総政治部の徐才厚主任に言ったのだが、もし許其亮が退職しては、それは人民解放軍の笑い話になるだろう。彼は大区の副職で退いたら、未だに師団長の最高服役年限に満たないのだ。師団長の最高服役年齢は五十五歳だ。これは一人の男が最も成熟する時期ではないか。

 幹部の特徴を深く理解することで、人材を発見し、人材を発掘することができる。私は小人材であった、大人材ではない、ましてや全才ではない。他の同志と比べて多少表面に現れた才があるのみである。私は自分の観点を隠すことを最も希望しない。私はこの国を愛し、この軍隊を愛している。部隊は困難にあり、改善の必要がある、それ故に私と我々とを必要にしているのだ。もしそれが完全であったなら、我々は何をする必要があるのか?愛ゆえ無私ゆえなのだ。無私であるから畏れも無いのだ。ある高級幹部は、全てを己のために考えている。特定の職務を得た後には、別のものに変わって何かしようともせず、話そうともせず、戦々恐々としている。なぜか?更に高い官につくためか?私欲があれば、堅固ではあり得ない、畏れがないことなどあり得ない。人の生にあって、自分自身がなさないのに他のものがなすのか?雷鋒はなしえなかった、朱伯儒はなしえなかった、ならば自分がなせばよいではないか。官の帽子は雨と同じように降って来る、それならどれか一つは諸君頭上にふってくるのだろうか?これらのものを追求する必要はない、精神的なものを追求すべきだ、これは境なく限りなく広いものなのだから。私は国防大学に学んだが、国防大学は二つの想定外があったと言った、第一に軍隊にこの様な人がいるとは想定外であった、第二に軍中でこの様な人が生存できるということが想定外であった。これは軍隊の希望を説明している。私は生活上何ら鋭いものがない。私と皆は付き合いが良かった。そして、諸君が高慢であり、多くの官職を持つことは意味を成さない。私は少なくない本を書いてきた。私は一人の人が私の本を千回読むことを望むが、千人の人が一回読むだけというのは望まない。ある人は読んで私を理解する。ある人は読んでも私を理解しない。彭東海(『空軍軍事学術』主編-編者注)は「私は君を読んで理解した。しかし、一、二回読んだだけでは理解できない」と言った。私は鋭い鋒をしまったりはしない、しまったら誰に見せるのだ、何に使うのだ?

 張考祥は南宋の人である、秦檜が宰相の時に彼が進士に及第すると、岳飛の名誉回復のために秦檜を上訴して弾劾した。友人は彼に鋒を納めるように勧めた、しかし彼は鋒を納めては進士に及第した意味がない、私は明に鋭い鋒を持っているのにそれを隠して進士に及第してどうするというのだ、秦檜はろくでなしだ、私が彼を攻撃しないで進士に及第して何の意味があるのかと言った。三つの問いは、気持ちのよいものだ。私は本能的に我々が中国の大時代に位置していることを感じる。中国の変容はもう直ぐだ。一旦変容が始まれば、リーダーシップを持ったものが必要になる。我々の軍は現在あまりに風采があり、個性にある人に欠乏している。過去の我々は人材綺羅星の如しであった。私は諸君に呉東峰の本を読むことを薦める。天下を横行したそれらの将軍たちに多くの特徴があった。尤太忠将軍下の部隊は豚を数えるのが好きだった。どの中隊にも、人数を尋ねず、豚の頭数を尋ねるのだ。幹部がもし間違うと必ず罵られた。もし答えが一頭少ないと、尤は「官僚主義」というのだ。一頭多く答えると、尤は「いんちきである」というのである。朱鎔基総理が私の妻の李小林に言ったのだが、1958年、彼が301病院に病院を見舞った際、エレベーターの中で彭徳懐元帥に出くわしのだという。彭は不治の病にかかった老同志を見舞ったところだった、彭は病気に話が及ぶと、三つの「然」を言った。「大不以為然(あまりに納得できない)」、「不得不然(止むを得ない)」、「順其自然(自然の定めだ)」。朱総理はこの三つの「然」は彼の一生の座右の銘になったと語った。毛と訒に至ってはいうう必要もないだろう。「三大戦役」の前に、ある人が毛主席に、国民党の勢力はまだ大きい、一口に飲み込むのは不可能だと言った。毛主席は三大戦役を戦うことを堅持した。その同志は「これは博打だ」と言ったが、毛主席は「よし、では新中国を賭けよう!」と言った。江主席は「新たな創造は民族の霊魂だ。」と言った。最も重要なのは思想の新たな創造なのである、その次が行為の新たな創造、そしてその次が文章の新たな創造で、その次の次が言語の新しい創造なのだ。一人の人間が一生の中にもし一言有るのならば、どこに陰口を恐れる必要があろうか、伝えればよいのだ、それが価値のあることなのだから。我々が現在生み出しているこれほど多くの文章、話している話、皆ゴミだ、美麗なゴミだ。書く材料から言えば、我々は毎日効率の無い労働をしている、重複した労働、さらには有害な労働である。江主席は、「彼らは(ある部門を指している)私に資料を送ってくるが、一つも見ることはない!」我々の今日の資料を見たまえ、空虚で何もない、とってつけたような公式的な話ばかりだ、憤慨させる。1989年6月23日、中央政治局は趙紫陽を批判する誤った会議を開いた。趙紫陽は「六四」の後に増長したのだ。当時の写真を諸君はおそらく注意していないだろう、代表が拍手をして趙紫陽の処理を決定したことを通過させた。この写真を撮ったとき趙紫陽はレンズに背をむけて、彼もまた拍手したのだ。彼は歴史を進めたかった、彼もまた歴史を進んだ。政治闘争なのだ。私は小平同志の政治闘争の芸術を真剣に研究したが、彼は常に三つの原則を掌握していたことを発見した。第一に、政治闘争を個人の恩讐と見なしたことはない。第二に、相手と日常の瑣末なことで衝突を発生させたことはない。第三に、決して自分と等級が釣り合わない相手と闘争することはない。鼠が獅子に挑戦を挑んでも、獅子は拒絶するのだ。獅子は言う、もし私が応戦したら、君が勝とうが負けようが、君はいずれも勝つことになる。私はどうして君を相手にするのだ?当時、姚依林が政治局会議を主持していた、趙紫陽は発言を求めたが、姚依林はどれぐらい時間が必要なのか尋ねた。趙紫陽は一時間必要だと答えた。姚依林は一時間では長すぎると言った。趙紫陽はそれなら二時間だと言った。この態度は増長している。陳雲同志と小平同志は会議に参加しなかった、先念同志も行かなかった。最後に陳雲同志の書面での発言時間が来た、彼の秘書である許永躍が送ったものである。許永躍は現在の国家安全部部長である。一枚の紙に二つの言葉があった、「一、趙紫陽同志は党中央の彼に対する希望に背いた、二、中央は趙紫陽同志の一切の処理に同意する。陳雲。1989年6月23日。」その後この書簡は中央文件として下部にも発せられ、地に投げられた言葉は、凄まじいものだった。私は常に思うのだが、我々の資料は陳雲同志の書簡のようなものであれさえすればよい。この一点では、一般人のほうが我々より強い。ある一人河北で働く女工がいるが、働いて数日後に故郷の親に手紙を送った、そこには八文字があるだけである、「此地钱多,人傻,速来。(この地は金が多い、人は馬鹿だ、早く来い。)」精彩無比である。この地は金が多い、前提がある、人は馬鹿だ、条件がある。早く来い、結論もある。我々にはこの様な表現はできない。
  
 当然、我々は多くの軍隊の好ましい側面について語ってきた、それを否定する問題ではないのだ。反対に、中国はますます開放の姿勢を以って世界との対話は広範なものとなっている、我々はさらに軍の多くの上手くいかない部分を発見するだろう。例えば観念のさらなる向上など、一つの新しい時代の風の先を開く、解放初期や「文化大革命」初期のあの様なあの種のものは無い、しかし社会の世俗化の大波の中で、それはまた世人を見下す独立対抗の姿勢を表わすことも無い。社会全体の構造の中で、もし経済発展の述語を持って軍の地位を表現するならば、それは特区ではない、沿海地域でもない、せいぜい中部地区といったものだ。興味深いのは、中央が打ち出した、大規模にてこ入れした中西部の経済発展戦略と科学技術強軍と質量建軍の方針は同じ年の出されたものであるようだ、これはまた中国の軍隊の状況を証明している。(続く)