中国における支配の問題に関する若干の考察

 権力というのは政治的強制力、もっと言えば物理的な暴力である。英語というのは中々に見も蓋も無い言語で、権力は“power”と訳される。真に権力というものの本質的な意味を表わしている。したがって国家の権力とは具体的な暴力装置である警察力であるとか軍事力をその源泉としている。

 しかしながら、一々政治的な権力者が物理的な暴力を発動して、彼の意志を被支配者に強制しようとすると、政治的、社会的な混乱状態が常態化してしまう。そこで、権力者は被支配者が彼の政治的決定を正当なものとして認め、自発的にそれを受け入れる状態に置きたいと思うようになる。被支配者の自発的承認を得た権力は権威として受け入れられるようになるが、この状態をM.ウェーバーは「支配」とした。支配とは権力が正当なものとして、被支配者の多くに受け入れられている状態を言い、その正当性は服従する側の「信念」のレベルで捉えた。ウェバーは支配の正当性を三つに分類した。合法的支配、カリスマ的支配、伝統的支配である。

 とまあ、今回のエントリーは古典的なウェーバーによる支配の正当性の問題を頭の片隅に入れつつ読んでもらいたい。中国政治の文脈においても支配の正当性の問題というのは中々に厄介な問題として登場してくる。大別すれば二つの側面があるかと思う。一つは党=国家の支配が人民から如何に正当性を得るのかという問題。もう一つは党内の権力基盤において、ある「領導者」が他の競争相手、一般党員に対して如何に支配の正当性を得るのかという問題についてである。一方は党が外に対して働きかける動き、一方は党内での動きである。当然にこの両者は相互に連関している。

 ウェーバーの解釈に依って考えてみれば、中国政治における支配の正当性を担保し得るものとして「カリスマ的支配」がすぐに思い浮かぶ。毛沢東訒小平という二人の巨人のカリスマがその支配の正当性を担保していたと考えるのは古典的な中国政治研究のアプローチであるし、また文化大革命の様な異常な状況下で毛沢東が権力を振るっていたという事実は、このアプローチを用いる際に良く使われる例だ。この毛沢東のカリスマは何処から来るのか?それは取りも直さず抗日戦争を戦い(歴史的事実のそれではなく、中国国内で流通する中国共産党による国生みの神話としてのそれ)、地主、一部財閥などの封建勢力の利益を代表する国民党を打倒し(これも右に同じ)、社会主義革命を実現して新中国を誕生させたそのリーダーシップと、それの精髄である毛沢東思想にその淵源が求められよう。現実路線を掲げて毛沢東に対抗した劉少奇毛沢東のカリスマと、それを熱狂的に支持する大衆の動員によって粛清されたのであった。毛沢東時代というのは彼の特異なカリスマを抜きに語れないのは事実である。

 毛沢東の死後に党内で権力を争ったのが訒小平華国鋒である。それぞれの政治資源、例えば訒小平が軍部の支持を背景にしているなどという要素も軽視するわけにはいかないが、その権力闘争の雌雄を決したのはイデオロギー闘争だ。中国政治におけるイデオロギー闘争とは何なのかということを考えてみたい。イデオロギーというのはある人間や集団の行動規範となる主義、思想ということかと思う。故に党内で行われるイデオロギー闘争とは、言い換えれば路線闘争、政策闘争と同じ意味を持つ。即ち、あるイデオロギーというのはある路線、政策を体現しているとも言えるのだ。毛沢東思想、訒小平理論、三つの代表論、科学的発展観、これらは何れもそれぞれの政権が取ってきた、また取ろうとする路線、政策を体現している。話を訒小平華国鋒に戻そう。このblogでも散々ネタにしているが、彼らは毛沢東思想の解釈を巡ってイデオロギー闘争を戦った。毛沢東路線の全面継承を唱える華国鋒の「凡是」と現実路線への転換を視野に「事実求是」を掲げる訒小平、両者はお互いに毛沢東思想の本質とは何かという点においての解釈を巡ってイデオロギー論争を繰り広げた。これはカリスマ亡き後、自らの路線が建党以来のイデオロギーに合致しているかどうかが、自身の権力の合法性を担保することに他ならないからではなかろうか。本来「合法的支配」というのは、選挙や法治を通した支配を言うわけだが、それが存在しない中国では正統イデオロギーの継承とそれを可能にする解釈によって権力の正当性が得られるのではないか。

 現在、中共は改革開放政策の結果、党内に様々な利害と権益を代表する利益集団が台頭し、また党自身も一つの利益集団と変容してきているという言い方がよくなされる。それは正しいのだろうが、一方で党内での利害の調整や権益の配分のみによっては洗練された支配の正当性を担保出来ないのも事実である。故に、党外におけるイデオロギーの持つ効用が低下しつつはある反面、党内においては依然としてイデオロギーが自らの権力基盤に正当性を賦与し、党内の支配の正当性を確立する道具としては有効に機能していると考えられのだ。そうでなければ、改革開放以後も党内生活においてイデオロギー的なテクニカルタームが未だに重要な意味を持つことを説明できないのではないか。そうであるならば、現在においてもイデオロギーの解釈権は権力闘争の大きな武器として機能するであろう。

 目を党外に転じてみよう。先ほど述べた通り、、中共は改革開放政策の結果、党内に様々な利害と権益を代表する利益集団が台頭し、また党自身も一つの利益集団として変容してきている。一方で党=国家体制による一元的支配は継続しつつ、改革開放によって生じた国家と社会の境界における空間で社会は自律化する傾向を持ち、社会の利害関係は複雑化の一途をたどっている。現状の党=国家体制はそれらの複雑化する社会状況をフィードバックするメカニズムを持っていない。こうして、社会には党の独裁体制に対する正当性への疑問が生じてくるわけだが、中共は普通の開発独裁国と同様に「豊かさを提供する」という点と、また「愛国主義」によって支配の正当性を担保しようとしているようである。「愛国主義教育実施要綱」の発布以来、中国においては日本の侵略とそれを退けた中国共産党という彼らの国生みの神話を拡大再生産し続けている。民族の危機を救った中共の偉大さを強調する教育は、89年の天安門事件を受けての党内における危機感との関連も良く指摘されている。こうした流れのなかで、中国の党中央辺りで対日政策を巡って現実路線を採りたいグループと強硬派の対立が見られるという考えは、昨今漸く市民権を得つつあるように思う。この対立からは党内生活において対日弱腰と見られることは自身の政治的基盤、権力の正当性を失いかねないという空気が存在することを伺わせる。それが党外の大衆の政治動員を伴うとどうなるか。それは昨年四月の反日暴動で見られた通りだ。実はこの対日政策姿勢と権力の正当性を巡る権力闘争というと、国民党内の日本派と欧米派の対立、国民党と軍閥、国民党と共産党の対立という歴史の中で、これまた大衆の直接的な動員と結びついて連動してきた歴史がある。民族主義と大衆動員ということにまで広げれば、義和団事件南京事件(37年のじゃないよ)以来延々と繰り返してきたことでもある。案外二十二史を眺めれば同じ様な例がたくさんあることであろう。民族主義と政権の正当性という点に関して言えば、台湾政策もまたおおきな問題となっているようにおもわれる。対日政策にしろ台湾政策にしろ、公定愛国主義イデオロギーから大きく外れたアプローチを取ることは、権力の正当性を失いかねない事態となる可能性をはらんでいる。

 こうして見てくると、この一年ほどの間で党中央で路線の対立が垣間見られた問題というのはどれも密接に政権の正当性と絡んで来る問題だったことがわかる。私個人はその争点は主に三つの問題に集約されるかと考えている。一つは「和諧社会建設」という、胡錦濤自身の「科学的発展観」というイデオロギーに深く関わる内政問題、あとの二つは民族主義という揮発性の高いイデオロギーに関わる対日政策と台湾問題である。前者に関して言えば、両会を経て「新農村建設」という新たな政策が打ち出されたが、これがどの様に受容され、また拒否されて行くのかという動きは胡錦濤指導力、更に言えば党内権力の正当性をどの程度掌握してるのかという指標になろう。後者についてはグロテスクに成長を遂げた中国の民族主義と、軍部の様な暴力装置と密接に関わる問題でもある。様々な矛盾を抱えて中国社会の内圧は高まりつつある。とか何とか考えると、個人的には第十一期三中全会当時に引けを取らないような分岐点に中国は差し掛かりつつあるのではないかとう予感がある